広島に生まれ、広島に育つ上で逃れられないのは平和学習、原爆についてだろう。
毎年夏にある平和学習に「もういいよ、もう見たくないよ」と思いながら受けていた。
専門学校に所属していた時、美術館の企画展で「被爆服の復元」というプロジェクトに関わったことがある。因みに自分が志願したわけではない。
この企画展は、原爆ドーム(旧産業奨励館)を中心に、戦争前、戦時中、戦後の広島の歩みを展示するものだった。
こういう企画に協力できることはとても名誉なことだとはわかっていたけれど当時の私は
被爆服を復元して何になるの?被爆服に価値があるのであってそれを復元してどうするの?
みたいなことも思ってもいた。
そんなこと言えるわけないままプロジェクトが始動。復元にあたって資料館で被爆服を採寸させていただいたり、着ていた方が所属されていた学校で当時のお話しを聞いたりした。(復元させていただいた服は、学徒のものだったので)
緊張感の中、学芸員さんが話す被爆者のエピソードを聞き、手袋をしてボロボロの、辛うじて服とわかるような布のかたまりを採寸。私が担当した服はその中でもかなり状態の良いものだったのだけど、ミシンで縫われたものではない、手縫いの制服だった。物資がない中、親が作ったものだったそうだ。
話を聞き制作に携わってみて思ったのは、今までと形は違えど、これも平和学習で戦争体験の継承だったのだなということ。そしてここに居なければできなかった事だったのだということ。
原爆を思い出すのは慰霊碑を見た時、折鶴、原爆ドームの近くを通った時、夏に近づいた頃。あまりに多くの方が亡くなり、それぞれの方に被爆体験がある。使命感を持ってそれを語る方もいれば、思い出したくないと口を噤む方も。思いを全て受け止めていたら潰れてしまうから、日常では時々思い出すくらいがちょうどいい。
私が立っている場所で人が死んでいたかもしれない。いつも通る橋の下では水を求めてたくさんの方が亡くなったそうだ。立ったまま燃えた馬も居たらしい。「70年草木も生えぬ」と言われたこの土地には草が生えて花が咲き、木も茂った。私の知らない人たちが頑張って街を作り直して、商売をして発展した。そんな所に私は住んでる。
何でこんな事を書いたかっていうと、当時からお世話になってる方が「懐かしいのが載ってたよ」と上記の企画展当時に学芸員をされてた方が書かれた新聞のコラムを送って下さったから。
311が近くTVでも東日本大震災を取り上げることが増えてきた。東北の土地の話が出る度に震災の事を思い出す。何かを切欠に蘇るというか、そういうところが広島のと似てる気がしてる。
辛い記憶を持ちながらその土地で生き続ける人、別の場所に住んだ人、苦しみは計り知れないし何もできないけど、あの瞬間はここから祈ろうと思ってる。